スポーツと宗教、プレッシャーと宗教
唐突ですが、日本人って宗教が嫌いな人が多いですよね。
宗教と聞くと露骨にいやそうな顔をする人が結構いる気がします。
これはぼくの周りで、という話なので一般的にどうなのか、ということはよく知りません。
ただ日本には無宗教の人が多かったり、しつこい宗教勧誘があったりするのは事実ですね。
ちなみにぼくの宗教について明言することは避けますが、特定の宗教が嫌いということはありません。
そんな宗教について口にしづらい日本ですが、先日宗教の良い部分のような話を聞き、なるほどと思うことがありました。
正確に言えば読んだ、なのですがよいってことで。
どういう話か、といいますと「プレッシャーがかかる場面で、宗教という自らの中で絶対的なものを信じられる人は強いしうらやましい」という話でした。
この話を聞き、なるほどと思ったわけです。
ちなみにこの話はスポーツを語る中で述べられていた考えです。
思えば海外のスポーツ選手が十字を切って試合に臨んでいる場面は頻繁にみられます。
ウサイン・ボルトがスタートする直前に、リオネル・メッシがゴールを決めた時に。
小さいころからなぜ海外のスポーツ選手は十字を切るのだろう、と疑問に思っていたくらいよく見る気がしています。
中学生の時あたりにキリスト教の人たちが十字を切るということを知って一つ賢くなった記憶があります。
どうでもいいですね。
とにかくスポーツ選手がよく十字を切っているということを言いたかったわけです。
そういうスポーツ選手がよく十字を切る、という知識がある中で先ほどの話を読んだわけですが、なるほどと個人的に思いました。
スポーツというものはプレッシャーとの闘いであるときもあります。
サッカーであればPKを蹴るとき、陸上であればスタートの時、バドミントンであればサーブの時。
陸上は本格的な競技をした経験がゼロですが、運動会の徒競走のスタートの時ですら緊張したので、きっと緊張するものなのでしょう。
ざっと思いつく特に緊張する場面を挙げてみましたが、ほかにもたくさんプレッシャーがかかる場面がスポーツには存在するのではないでしょうか。
多くの場合スポーツでは練習をし、その練習成果を試合にぶつけるということになる気がします。
しかし「プレッシャー」という存在が試合では発生し、心拍数が上がりすぎたり思考が鈍ることで思ったように競技ができない、ということがよくあります。
ぼくはよくあります。
プレッシャーに弱いタイプなんですね。
プレッシャーを力に変える、なんていう化け物のようなメンタルをした人も多くいますが、プレッシャーをうまく使えない、という人が大半でしょう。
そうだといいなぁ
そんな時に絶対的に信じることができる「宗教」というものが自分の中にあったら、プレッシャーというものに対処しやすいのかもしれない、ということを思ったわけです。
プレッシャーがなぜ発生するか、ということはよくわかりませんが、プレッシャーよりも大きい「神」という存在があればプレッシャーを神にゆだねられるかもしれない、と思いました。
「PKをもし止められたら神への信仰が足りなかったのだ」とか、「スタートを失敗するなら普段の行いを神が罰したのだ」とか思えたら気が楽なのかもしれない、と想像してみました。
もし特定の宗教を信仰している方で、このような考えは褒められたものではないということであれば申し訳ないとしか言いようがありませんが、宗教に対して熱心でないぼくはこのように思います。
日本人はプレッシャーに弱い、ということもよく言われる気がしますが、もしここまでの話が正しかったとしたら面白いですね。
ちなみにぼくは無宗教であることはそこまで悪いとは思いませんが、宗教について話しづらい社会はあまり好きではないです。
宗教の話は手軽にされるべきではないかもしれませんが、もっと気楽に話せたらいいなと思いながら書いてみました。