抗争と疲労感
近年、といっても5年以上前からですが、インターネットの発達によりオンライン対戦を売りにするゲームが増えています。
ぼくが小学生の頃は通信ケーブルがないと携帯ゲーム機の通信ができないような時代でした。
もっと上の世代の方からすれば「テレビゲーム」というものが十分に時代の進化を示しているモノなのかもしれませんが、ぼくからすると「インターネットを利用したゲーム」というものは技術の進歩、時の移り変わりを強く感じさせられるものに思えます。
そんな時代の進歩を感じさせるゲームをするということが、ぼくは好きです。
高校生のころから「ポケットモンスター」
にどっぷりはまっていたり、なかったりします。
任天堂のゲームばかりやっている人になっていますね。
他会社のゲームもやりたいと思っていますが、家のスペースの関係だったり、お金の関係だったりで昔からやっていた任天堂のゲームばかりになってしまっています。
こういったゲームで日々どこの誰かもわからない人たちと対戦をしているのですが、このようなゲームをやるとすごく疲れます。
ネットにつながずコンピュータと対戦をするゲームに比べ、疲労感のたまり具合が確実に違うと私は考えています。
なんでかなと考えてみたのですが、一つ思いついたそれっぽい理由が「人と争うと疲れる」というものです。
4歳で幼稚園に入学し、社会の様々な人と接するようになってから何度か人と争ってきた記憶があります。
時に人を傷つけ、自分が傷つき、でも最終的にいつもなんだか疲れる、ということが多かったように思います。
この疲れる理由について、かつては「喧嘩すると怒られるから」というように考えていた気がします。
喧嘩すると親だったり先生に怒られる、という観念が特に幼少期にはありました。
怒られるということが好きな人はいないと思います。
ぼくは大嫌いです。
怒られるといかにその場をやり過ごすか、ということを必死に考え、結果疲れる、ということを考えていました。
ですが、最近思ったのはそもそも「人と争う」という行為自体が疲れる、ということです。
ある意味当然のことですね。
なぜ人と争うことは疲れるか、ということについてまで考えがまとまっているわけではないです。
そもそもここまで書き連ねてきたことも考えがまとまったとは言い難いですし。
そのような中で、なぜ人と争うと疲れるか、という理由について僭越ながら述べさせていただくと「相手の思考を考えながら自らの行動を決定する、ということにとてつもない労力が必要だから」なのではないかと思っています。
コンピュータは合理的な思考を行います。
ゲームであればプログラミングされた通りに動きます。
自分が行う行動に対して適切な行動を返してくるため、自らの行動の決定が比較的容易になるのでないでしょうか。
一方で人間は必ずしも合理的に行動するとは限りません。
個々の人間が持つ考えやバックグラウンドなどに基づいて行動が決定されます。
もともと特別なオンリーワン、なんですね。
そんな一人ひとり違う人と争うためには、自らは相手に沿った行動を選択する必要が出てきます。
争う、ということは争いの末自らに何かしらのメリットをもたらすことを目指している、ということだと思います、
争う中で相手に合わせず自らの思考のみに基づいて行動する場面もあるでしょうが、相手の思考を読んだうえで行動することもあるでしょう。
そうした作業はカロリーが必要な気がします。
人と争うことは決して悪いことだとは思いません。
言ってみれば世界、そして日本の歴史は抗争の積み重ねです。
そこまで言うと大げさすぎる話になりますが、争いから生み出されるものは数多くあるはずです。
ただ、争いすぎると疲れるよ、と思った22歳でした。