モノを大切にする心
今日テレビが壊れました。
とはいっても一人暮らしをしているぼくの家にあるテレビではなく、家族が住んでいる実家のテレビが壊れた、という話です。
思い返せばぼくの実家のテレビは、生まれてから一回しか買い換えた記憶がありません。
今ぼくが22歳で、今日壊れたテレビを購入したのが
中学1年生の時と記憶しているので、およそ9年間使い続けたテレビが壊れてしまったということになり、生まれたときからあったテレビは10年以上使っていたことになります。
ちなみに生まれたときからあったテレビは、ブラウン管の20インチあるかないか、というようなテレビでした。
↓こんなの。もっと小さかったような記憶。
10年近くテレビを使い続ける、ということがモノを大切にしてるのか、していないのかということについてぼくはイマイチ判断ができません。
ですが、たまたまぼくの父は総合電機メーカーに勤めるサラリーマンで、いわゆる電化製品がとっても好きな人間です。
そのような人が進化のスピードが大変はやいテレビをほとんど買い換えていない、ということはすごいことだなーといまさらになって思っております。
小さいころから「モノを大切にしなさい」と言い続けられてきました。
高校を卒業するまでは比較的ものを大切にする人間だったと自分自身について思います。
高校生の間は入学時に購入したシャープペンシル(ドクターグリップの緑色)を使い続け、大学入試の直前に完全に壊れてしまった、なんてこともありましたし、中学生の時は小学生から使っていたクソダサい財布をずっと使い、小学生の時は一年生から6年生までランドセルを使っていました(途中諸事情で2年ほどランドセルを使っていませんでしたが)。
しかし、大学生になりなんでもすぐ買い換えてしまうことが多くなった気がします。
シャープペンシルなんて入学してから何本買ったかわかりませんし、財布も何度か変わりました。
なんでだろう、と考えたときに一つ浮かんだのが「自由に扱えるお金が圧倒的に増えた」ということです。
親に一人暮らしをさせてもらい、アルバイトもし、親の目の届かないお金がすごく凄く増えました。
だから、というのも変かもしれませんが、モノを新しくすることに抵抗が少なくなりどんどん新しいものを購入するようになってしまったのかもしれません。
うまく説明できている気がしませんが「自由に扱えるお金」の存在は重要な気がします。
もう一つ考えたのが、思い入れがないモノ、思い入れがありすぎるモノが増えたということです。
小さい頃、何か自分のものを買ってもらうという経験は何にも代えがたく、重要なものでした。
親と買い物に行き、ついてきたご褒美とか、特別な日だから、といったことで何かしらを買ってもらった日は帰宅してから就寝するまで買ってもらったモノを眺めたり触っていたような記憶があります。
成長する中で「自分のモノ」というものがどんどん増えていき、モノに対する思い入れが相対的に低くなってしまっているのかな、と感じました。
しかし、この年でも思い入れがある、むしろありすぎるというモノがあったりします。
しかしありすぎるが故に手放さないとやっていけない、という場面もあったりします。
具体的にどういうものか、ということは野暮なので言いませんが、そういう経験が多くの人にあったりするのではないでしょうか。
そんなモノをなかなか大切にしなくなってしまったぼくです。
周りの人に「どれくらい君ってモノを大切にしてる?」なんてクサすぎて聞けないため、他の人たちがどの程度モノを大切にしているかわかりません。
しかし、もしかすると小さなころに比べればモノを大切にできなくなった人もいたりするのではないでしょうか。
そんなぼくでも「実家のテレビが壊れた」ということを聞き、過去に思いを巡らせることでモノを大切にする素晴らしさ、というものをなんとなく感じました。
残念ながらこの素晴らしさということを文章に起こすスキルは足りていない気がするので書かないことにします。
ですが、何かのきっかけでモノを大切にするということを思い起こす人が世の中に増えればいいなーとか思いながら、書き綴ってみました。
最近気づいたんですけど心に浮かんだことをつらつら書いて、さあ終ろう!って思ってもなかなか最後が難しいですね。
このあたりのスキルも上がったらうれしいなぁ。